入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈9〉

「そうすると、偶然かどうか知りませんが、无邪志、胸刺、知々夫という3つのブロックに対応しないこともない、或いは、児玉地方が知々夫国造に当たることも考えられないことはないのですが、実際の秩父とは川筋が違うから、しばらく棚上げにしておかざるを得ないと思います」

「そのほか、批判の急先鋒の渡辺さんが活躍している出雲も大国造です、この場合は、よくいわれているように、松江から安来、荒島という出雲の東、ここが意宇(おう)の出雲といって、有力な古墳が古くからあります、それに対して西部の出雲大社のある方を杵築出雲といって、ここにも大きなセンターがあって、昔から出雲国として有名な地域国家は2極構造を持っている、ということがいえます」

「大雑把にいえば、この場合も、最初は意宇の出雲の方が景気よくて、古墳時代の終わりになると出雲大社がある杵築の方が発展していきます、武蔵では南北2極構造で移り変わって、出雲では東西2極構造で、東から西へ中心が移ります」

「さらに、弥生時代後期に遡ると、荒神谷遺跡がある杵築の出雲の方、斐川下流域の方が大きな四隅突出墳があり、意宇のほうには小さな四隅突出墳があり、弥生時代から大きな連合体をつくっている形跡があるわけです、2つの極があって、それに吉備が絡む、筑紫が絡むということで、複雑な動きをするのが出雲の歴史なわけです」

「武蔵もそれに似ているのではないでしょうか、渡辺さんは、南武蔵と北武蔵はこんなに離れているのに、古墳時代前期に1つの政治的な単位というのは考えられないということで、はなから問題にしてくれないわけですが、決してそういうわけでもないことは、今のことからもわかります」

「意宇と杵築は30~40km、武蔵の場合も、南武蔵の芝丸山古墳と野本将軍塚の間は旧荒川水系で結ばれて、大体30~40kmです、ですから、決して遠過ぎてまとまれない仲ではないというふうに私は考えているわけです」