入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”〈大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月20日)から 「『武蔵国造の反乱』再検討」(新潟大学教授 甘粕 健氏)〈8〉

「『国造本紀』には、武蔵には『无邪志の国造』と『胸刺の国造』と『知々夫の国造』の3国造があったというふうに書かれています、けれども、无邪志の国造と胸刺の国造は、无邪志国造エタモヒの息子が胸刺国造の祖先、親子関係で、同族だということがわかります」

「或いは、『国造本紀』の制作過程で錯誤があって、本来1つのものを重複して書いたのではないかというのもあるのですが、同族関係まで書いているところをみると、武蔵国には同族関係の2つの中心的な勢力がいたのではないかと思います、知々夫は遅れて古墳が出てくる山間部ですから、ここでは別にして考えていいと思います」

「この図Aの分布で見てもわかりますように、南武蔵の多摩川と鶴見水系、これが1つのまとまり、東松山付近の比企郡から行田付近の北埼玉、北武蔵というけれども、敢えていえば中武蔵から北武蔵ですが、これが1つ、見逃せないのは、上野にくっついているような位置ですが、北西部の児玉郡、ここにも古くから有力な古墳群が集中しており、1つのまとまりと云えます」

「さらに、入間川水系を1つのブロックにしてもいいと思うのですが、この図から見てもわかりますように、いずれも白抜きの古墳です、ですから、比企地方に比べると入間地方はその周辺で、少し遅れて前方後円墳が出てくる地域です、前期からの古墳の中心ということでは3つのブロック①南武蔵、②中~北武蔵、③児玉郡をあげていいと思います」