2010-05-09 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈17〉 「5世紀の中ぐらいには、毛野の地域では、太田天神山古墳と非常に関係の深い墳丘形態を持った前方後円墳だけれども、その中では不動山古墳のように3番目ぐらいに位置付けられる保渡田古墳群に代表される勢力が5世紀後半以降に前方後円墳を維持していったということが考えられます」 「面白いことに保渡田古墳群の場合、内堀の中に島をつくっているのです、中島と言っております、これを陪塚とする説と、前方後円墳のくびれ部の造り出しが墳丘から分離して島ができたのだろうとする説があります、ちょうど後円部を囲むように4基あるのです」 「この中島は八幡塚古墳では調査されていて、埴輪円筒列が回っていて、調査されたくびれ部東側のものからは土器がたくさん出土しているといいます、それを陪塚とするならば、この中に主体部がなければならないのですが、低い墳丘だったものですから、上が削れてしまいわかっていないのです、陪塚か造り出しか、いずれにしても非常に祭祀的な色合いの強いものだったと思います」 「そうした性格の中島が、この保渡田古墳群の3つの古墳にあります、薬師塚古墳の図には書いてありませんけれども、ここにも4つの中島があったというふうに考えていいと思います、しかも、そういう古墳が全長100mクラスでつくられているわけです、これら3基の古墳は、2基は前方部を西に向け、1基は南を向くという位置でつくられています」