2010-05-02 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈10〉 「ところが、そういう勢力が次ぎの段階にどうなるかというと、お互いに連合的な勢力になっていく、いわゆる首長連合というような勢力として、この地域がまとまりをもっていくと言えるだろうと思います」 「図D『群馬県地域の主な前方後円墳(1)』に浅間山古墳があります、この古墳は5世紀の初めにつくられた前方後円墳だろうと思いますが、全長171.5mあり、5世紀の前半代では東日本で一番大きい古墳と言っていいものです」 「高崎東南部の地に、浅間山古墳ができるのです、つまり、在来の勢力がぶつかりあう場所に、この大きな古墳が5世紀の初めにできるのです、墳丘プランで見ますと、前橋天神山古墳と相似形なのです、129mの大きさでつくられた前橋天神山古墳を拡大していくと、171.5mの浅間山古墳の形になります」 「すなわち、同じ企画設計が用いられ、同じ系統の設計技術か、または土木技術でつくられているのです、従って、前橋天神山古墳と浅間山古墳は非常に関係の深い古墳だということが言えるだろうと思います」 「ところで、浅間山古墳ができた頃には、前橋天神山古墳の地域には、浅間山古墳に匹敵するような古墳はできていません、どういうことかというと、前橋天神山古墳ができた頃は、前橋の地域と高崎の地域は伝統的在地系と新進出系の勢力2つに分かれていたのです、これが次ぎの段階に、この伝統地域を取り囲むような形で大きな勢力圏に成長していったということが考えられます」 「それと同じようなことが太田の方にも出てきます、また、図Dに朝子塚古墳があります、この朝子塚古墳は古墳の形が少し違っています、前方部が撥形に開いているのです、古墳に関心のある方ならなるほどと思われると思うのですが、大和の箸墓古墳のタイプです、そういう2つの違ったタイプの古墳があります」