入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [65]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 高橋一夫氏(埼玉県立博物館長・近著「鉄剣銘115文字の謎に迫る」より)の考察 ⑯

律令時代、埼玉郡は5郷からなる下群に編成された、大古墳があった地域としては異例の少なさである、国造のあった本貫地であった地域は、律令時代になると国府国分寺が置かれるのが常であるが、武蔵国では国府は現在の東京都府中市に、国分寺国分寺市に置かれた、また、こうした有力豪族が盤居していた地域では、古墳の造営終了ととに氏寺や郡寺が造営されるが、埼玉郡には郡衙(ぐんが)にともなう寺院跡は確認されていない」

「こうした事実から、律令時代まで武蔵国造一族はその勢力を維持したとは考えがたく、7世紀中頃に大和政権とそれに加担する上野政権によって解体されたと思われる」

「天王山古墳の角閃石安山岩は、こうした動きに加担した在地勢力が上毛野(かみつけぬ)政権から供給を受けた石材と解釈でき、この頃から埼玉政権解体に向けての動きがはじまったと推測できよう、旧盛徳寺跡の9世紀後半の瓦は、製作技法、文様意匠とも上野国分寺の影響下にあることは、その一端を示すものであり、その後も上野の影響下にあったことを物語っている」

「日本書記の安閑天皇元年(534年)の条に、国造職をめぐる笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(をき)とが争い、朝廷に助けを求めた笠原直使主が国造となり、上毛野君小熊(かみつけぬのきみおくま)に応援を求めた小杵は殺害されたと記されている、つまり、6世紀前半以降、武蔵国造と上野は緊張関係にあったのである、その後、大和王権と中央官人化した上毛野一族は、武蔵国造勢力の解体に向けて行動を開始したとみることができる」

「こうした状況のなかで、上野の領域から石材を入手できなかった埼玉政権は、横穴式石室の石材を房総半島に求め、武蔵からは緑泥片岩を供給したのである、さらに、それ以前から埼玉政権は生出塚埴輪窯跡群の埴輪を下総・上総に供給しており、河川と東海道を介してそれぞれの国と深い結びつきがあった」

「埴輪や房州石は、武蔵国上総国との間に、経済的・政治的連携があったことの一端を示している、将軍山古墳が富津市の稲荷山古墳の墳形企画を採用した背景には、こうした歴史的要因があったのである」