入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [64]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 高橋一夫氏(埼玉県立博物館長・近著「鉄剣銘115文字の謎に迫る」より)の考察 ⑮

「6世紀後半の埼玉古墳群周辺の動向は、将軍山古墳が築かれた前後に、埼玉古墳群の東方3・5キロに127メートル余の真名板高山古墳が、東方800メートルに将軍山古墳と同時期で100メートルをこえる若王子古墳が、南東13キロの位置にはそれを上まわる107メートルの天王山古墳という3基の大型前方後円墳が、埼玉古墳群を包囲するように出現する」

「天王山古墳群の横穴式石室は角閃安山岩を使用している、埼玉古墳群では使用しなかった上野(こうずけ)国の石材を使用していることから、被葬者は上野の首長と政治的交渉があったことが想定できる」

「こうした現象から若松良一氏は、それ以前の埼玉古墳群の絶対的優位性とくらべると、なんらかの政治的変動が起こり、その背景には大和王権による埼玉政権の勢力分解政策があったと考える」

「しかし、その後、天王山古墳や真名板高山古墳が造営された地域では、次代の大型前方後円墳が築かれず、7世紀初頭には埼玉古墳群の北方3・5キロに112メートルの前方後円墳である小見真観寺古墳が、7世紀中葉には北方2キロに石室全長16・7メートルという武蔵最大規模の八幡山古墳が造営されることから埼玉政権は復帰したと解釈する」

八幡山古墳は昭和10年に、古墳の南東に広がる小針沼の干拓にその封土が用いられ石室のみが残された、露出した胴張複室構造の石室は『関東の石舞台』とよばれ、昭和51年の長雨により天井石が移動し危険な状態であったため、昭和52年から53年に復原工事があり、その際や他などの調査から多くの出土品が得られた、墳丘は77メートル前後の円墳であったようである」

「一方、増田逸郎氏は、これらの古墳は古墳群と対峙する勢力ではなく、むしろ埼玉古墳群の勢力の一翼を担う首長たちで、埼玉政権は婚姻をとおして同族関係を結んで埼玉一族以外の集団をとり込み、一層強固な支配機構を確立したと考えた」

「果たして、埼玉古墳群を造営した武蔵国造一族の行く末はどうなったのだろうか」