入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [61]

更に、有力な学者、研究者の考察をたどってみる

◇ 高橋一夫氏(埼玉県立博物館長・近著「鉄剣銘115文字の謎に迫る」より)の考察 ⑫

「造り出しの初原的なものが、およそ4世紀前半頃に出現するが、その形態が確立するのは4世紀後半からである、4世紀後半は畿内を中心に造り出しは分布するが5世紀初頭には関東から南九州まで広く分布するようになる」

「造り出しは円墳にも付くが圧倒的に前方後円墳が多く、前方後方墳では1例のみである、また、造り出しは32メートルの小さな前方後円墳にも存在するが、圧倒的に100メートルをこえる古墳に多い」

「地域別では大阪に半数近く存在し、奈良が続く、埼玉は6基で、埼玉古墳群だけにある点が特徴である、なお、武蔵国全体をみても、5世紀中頃の東京都野毛大塚古墳以降、造り出しをもつ古墳は埼玉古墳群の特定の古墳に限定される」

「埼玉古墳群では稲荷山古墳、瓦塚古墳、将軍山古墳で造り出しの調査が実施されたが、土器が集中して出土する点が特徴であり、須恵器の大甕や高坏、坏などが出土していることから飲食物供献儀礼の存在を想定した」

「こうした造り出しの出土遺物をみると、大甕をはじめ須恵器と土師器が出土していることがわかる、4世紀前半の奈良県東殿塚古墳では、前方部の裾部に鰭(ひれ)付き円筒・壺形・朝顔埴輪で台形に区切られ、底部穿孔壺・高坏・器台・小型丸底鉢が破砕された状態で出土した」

「この区画を造り出しの起源とすると、まさに底部穿孔土器や破砕行為は弥生時代の観念上の飲食物供献儀礼をそのまま踏襲していることになる、これを造り出しの起源とするなら、初原のあり方がその本質を示すので、造り出しでの儀礼の本質は、死者、そして神となった被葬者への飲食物供献儀礼であり、この後、埴輪祭祀の影響を受けて埴輪が配列されたと考えられる」

「造り出し出現の要因は、墳丘の大型化にともない実際に墳丘に登ることが困難になり、さらに円筒埴輪を1重、2重にめぐらして墳丘自体を禁忌とする思想が登場し、後円部上での儀礼が不可能になったことにある、それにかわって造り出しが創出されたのである」

「一方、造り出しはすべての古墳に付くわけではないので、地域最高首長の首長権の継承をともなう古墳に付設されたものと考えられる、しかも、造り出しはこうした最高首長の古墳に必ず付くとはかぎらないが、大半の大王墓級の前方後円墳に存在することから、地方においては大王との関係が深い最高首長のみがそれを付設することが許されたとみることができる」

「埼玉古墳群では、杖刀人の首であるオワケに仕えるという、まさに王権と強い結びつきがあった人物が稲荷山古墳に埋葬されていることが、このことを如実に物語っている」