2009-12-20 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 金錯銘鉄剣(辛亥銘鉄剣)と埼玉(さきたま)古墳群 [5] 埼玉古墳群の周辺は、現在は「さきたま風土記の丘」として整備され、遊歩道や緑地帯が古墳群をとりまき、二子山古墳、稲荷山古墳などの周濠が復原されて水をたたえています、昭和41年(1966年)風土記の丘構想によって用地買収が始められる以前は、古墳の周辺は見渡す限りの桑畑と水田地帯でした この地域の水田耕作が何時頃から始められたかは明確ではないですが、近年、行田市から熊谷市にかけて、北武蔵で最も古い弥生時代中期の住居址が発見されつつありますので、ほぼその頃からと思われます、二子山古墳の近くにある盛徳寺には、建立年代が奈良時代にまでさかのぼる古代寺院址があり、礎石が確認されています 稲荷山古墳の調査において、周濠が旧忍川によって切断されていた事実がみとめられ、旧忍川の流路は、稲荷山古墳の築造後に現在のようになったものであろうと思われます 埼玉古墳群は、この埼玉の地に北方から南方へ連なるような形で9基の大型古墳が分布しています、丸墓山古墳を除いて他の8基は、多少の相違を示しながらも、前方後円墳の主軸方向を南北にとり、前方部を南側に向けて築造されています この事実は埼玉古墳群の歴史的な形成過程を考える際に、重要な視点を提供するものでしょう、このような大型古墳が同一地域に、時代の経過とともに順次築造されていったことは、さきたまの風土と無関係ではなかったと思われます