入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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古墳時代の概略 [1]

古墳時代は三世紀後半から七世紀の約450年間にわたり、巨大な墳丘と広大な墓域をもつ墳墓(すなわち古墳)が数多く築造された時代です

弥生時代に進行していた集団間の従属関係が、より拡大し政治的地域集団が形成されると、その支配者(首長)に権限が集中するようになります、集団の成員を支えていた結合原理は、祖先崇拝に基ずく同族意識でしたが、首長は祖先神の継承者として、豊作を神に祈るための祭りを司り、神の意志を集団の人々に伝える特別な力をもつ者と信じられようになります

従って首長が死ぬと、集団の人々は首長のもつ特別な力を次の首長に継承させる祭(儀式)を盛大に行いました、古墳は墓であり、儀式を行う場でもあったようです、首長は古墳造りに集団成員を動員することで支配権の正当性を主張するとともに、成員は参加することによって首長の霊力の継承と神の存在を確信したのです、こうした古墳の代表的なものが、前方後円墳なのです

最も古い古墳の発生地は、諸説がありますが大和(やまと)地方であり、次第に広がって行きました、四世紀の後半から五世紀になると、古墳の築造は宮城県から鹿児島県まで広がります、特に、かっての筑紫(つくし)・吉備(きび)・大和・河内・尾張・毛野(けぬ)などの地域には集中して存在していますが、これは大首長のもとに首長が連合し地域政権が形成されてことを示しています、武蔵でも四世紀の中頃から古墳が造られています、特に多摩川下流や埼玉県内でも児玉・比企地方などに古い時期の古墳が認められます

この中でも他地域に卓越した勢力をもっていたのが大和・河内を中心とする近畿地方でした(大和政権とか畿内政権と呼ばれています)、各地の大首長たちは、みずからの支配的地位を保つとともに、すぐれた先進技術・物資を取り入れるために、大和政権と同盟関係を結びました、前方後円墳という世界でも特異な、しかし、列島内では画一的な規格をもった墳墓の存在は、それを物語っているようです

同盟関係は大和政権の主導のもとに進められましたが、次第に各地の勢力は同盟から従属へと変化していきました、各地の勢力の中には、大和政権に対立して反抗する者もありましたが、結局大和政権に押えられ服属化していきました

こうした動きが顕著になったのは、五世紀後半から六世紀にかけてであり、七世紀頃からは大和政権による中央集権化も進められ各地の首長たちも地方官人化していきます

埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘(きんさくめい)鉄剣には、「乎獲居臣(ヲワケノオミ)」が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の杖刀人首(じょうとうじんのおびと)として仕えたことが記されていますが、五世紀後半に東国の首長たちが、すでに大和政権に従属化していたことを示すものと云われています

古墳時代というのは、大和政権による国家の形成が積極的に進められつつある段階にあった時代と言えるでしょう