入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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川口の古を考える

新郷古墳群ー峯、東本郷、赤井ー [5]

この地域周辺の古墳分布は、新郷古墳だけでなく、草加市谷塚や東京都足立区伊興周辺、さいたま市大久保周辺、戸田市本町等に広がっているようです、大宮台地鳩ヶ谷支台の最先端部から毛長川流域の自然堤防上にかけては、大古墳群地帯であったようです、その中で大型の前方後円墳の存在が確かめられるのは新郷古墳群のみで、その中心的存在であったと思われます(新郷古墳群以外の周辺古墳については、後日、項をあらためて取り上げる予定です)

前述の旧県史には、次のような記述もあります「本群の最南端である新郷村大字峰の台地は往時江戸湾の入江に臨み南面せる景勝の地を占め、此に前方後円墳一基を存して居る。其地は既に古く石器時代に於いて聚落の発達を見て北に接する大字東貝塚と共に貝塚中より幾多の人骨・遺物等を出せるが、古墳時代に至っても引続き聚落の発達を見たものと思はれる。峰の前方後円墳は東西を長軸として西面し、(中略)殆んど破壊発掘等を免れ原型を保って居る」

また、『新編武蔵風土記』にも次のような記載もあります「稲荷社 土人高稲荷ト称ス。此社地高クシテ。南ヲ望メバ遥ニ東叡山。及ビ品川ノ海上ナドミユ。又巽(そん・南東)ノ方ハ。下総国国府台。艮(ごん・北東)ノ方ハ新利根川ノホトリ樹間ニミエテ。尤(もっとも)勝景ノ地ナリ。思フニ此所北ノ方ハ殊ニ高ク。南ノ方一段低キサマ。古墳ナドニテアルベシ。」

1960年に高稲荷古墳の調査にあたった明治大学教授小林三郎は①独立丘陵であること、②前方部が未発達な形態であること、③主体部が粘土施設であること、④副葬品が少ないこと(埴輪が検出されていないこと)、等から初現期古墳の一つとし、5世紀前半までの築造としています、また、立地する場所が東京湾から北武蔵への水上交通の要所にあり、畿内や東海地方の外来的文化流入の門戸として初現期古墳の基盤があるとしています

年代比定については、粘土施設は毛長川一帯の古墳で石室を主体としたものの痕跡は伝えられていないし、埴輪についても墳裾や周溝の調査がされていない点から存在しなかったと断じることはできないと思われますが、この古墳が埼玉県南部、ひいては武蔵の古墳の形成を考える際に重要な意義を占めていることには変わりはないと思われます