入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

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鳩ケ谷の古を考える

小渕字細沼第1遺跡・三ッ和1-1-1の一部地点調査〈4〉

この調査では、大小合わせて20条の溝跡が検出されました、方形周溝墓の一部と思われる大溝(第20号溝跡)を含む古墳時代前期の溝跡が4条(第3・9・10・20号溝跡)、中世(13世紀後半)の大溝が1条(第5号溝跡)、他の多くは近世(概ね18世紀以降)のものです

第3号溝跡は、北側が調査区外に延びているが南部ではやや西に曲がるような形状を示しながら立ち上がっています、多くはないが古墳時代前期の土師器細片が出土しています

第20号溝跡は、方形周溝墓の一部と思われます、深さは40cmと浅いが、上幅は3、3m下幅は3mと規模が大きく直角に曲がる大溝の一部であり、東端は後世の土坑状の掘り込みによって削りこまれています、遺物は古墳時代前期の壷・甕が出土しています

第5号溝跡は上幅2、5m深さ1mの大溝です、遺物は渥美窯系甕・山茶碗窯系捏鉢・舶載青磁碗が出土しており13世紀後半のものと思われます、この他、古墳時代前期の器台・平安時代の須恵器・土師器などが出土しましたがいずれも流れ込みのようです

第1号溝跡と第7号溝跡は共に東側では立ち上がっていますが、西側に接する平柳用水に向って開口している様子が見られます、第1号溝跡からは近世の陶磁器や焙烙と近代の桟瓦が、第7号溝跡からは18世紀以降の陶磁器や近代のガラスビンなどが出土しています

ところで、平柳用水は見沼代用水から引きこみ低地南部の平柳領一帯の主要用水として機能していました、その水源となる見沼代用水は享保13年(1728)に井沢弥惣兵衛為永が完成させましたが、調査地の上流600mの位置で平柳用水に架けられた「とんぼ橋」と記した橋石が発見され、その記年銘から既に延宝5年(1677)には平柳用水が存在していたことが明らかにされています

さらに、調査地で分流する新田井掘についても調査地から下流の東南200m地点で同様に「蔵前橋」の橋石が発見され、その銘文から正徳2年(1712)には存在していたことがわかります

なお、見沼代用水の完成以前は元禄年間(1688~1704)作成とされる鳩ケ谷絵図から、見沼代用水の前身として淵江四ヶ領用水が存在していたことも理解され、これを利用して見沼代用水が完成されたようです、調査地一帯は見沼代用水開削以前から既に用水路網が整備されていたようです