入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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鳩ケ谷の古を考える

前田字六反畑第1遺跡・南4-25-1他地点調査〈8〉

◇復習-1

前田字六反畑第1遺跡は平安時代(9世紀~11世紀頃)と江戸時代(17世紀後半以降)の遺構と遺物が検出されています、遺物では、中世の渥美や常滑系の炻器も見られるものの、その時期の遺構は検出されていません

平安時代では集落の存在が認められ、わずか110m程の自然堤防に営まれ、両側の低位面を水田としていたことが推測されます

江戸時代は、天目茶碗などの瀬戸・美濃陶器の出土から17世紀後半を上限とし、コバルト絵具の染付磁器碗が出土することから19世紀頃が下限とみられます、それまで前田村と二軒在家村の境にあり、その後、若干北側にずれるように溝を付け替えたようです

【九世紀中~後葉】

第1号竪穴建物と掘立柱跡が存在しています、第1号竪穴建物跡は、カマドを設ける堀り土間の検出によって確認され、当時の竪穴の規模は、一辺4m四方平均であることや5~6人の家族を勘案すると土間と居間からなる住居が想定でき、掘り土間の西側に居間部分があったことになります、上屋構造については、周辺にある小穴から四角形に並ぶ主柱穴の規則性は認められませんが、プレハブ工法の壁立式住居などが考えられます

出土土器は、覆土いっぱいに土師器、須恵器、灰釉陶器の破片がみられ、若干の時間幅が認められます、住居廃棄後、掘り土間の凹地をゴミ穴として使用したと思われます

掘立柱跡は第1号竪穴建物跡の出入口方向に棟筋と平行して検出されています、直径25cmの柱が3m間隔で一対立っていたことが認められ、しかも建替えの痕跡が観察でき、恒久的構築物と認識されます、住居に付設する門柱様の構築物を想定するのが無難ですが、目印等を掲げる幢竿支柱といった構築物の存在も考えられます