入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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《戸田の遺跡》

◇鍛冶谷・新田口遺跡第2次発掘調査-2

(1次発掘調査報告併合)

鍛冶谷・新田口遺跡の位置するところは、荒川下流域左岸に発達した自然堤防上です、この自然堤防は吹上・鴻巣から大宮附近までは平均標高20mの台地がその役を果たしていますが、浦和・戸田・川口では自然堤防の様相は明瞭ではありません

ただ、この自然堤防は黄褐色粘土層から成り荒川の流れに並行しています、その高さはさいたま市大久保附近で8m、戸田市上戸田で5m、川口市で4mとほとんど平地化されています、この地域は荒川低地と呼ばれているところでもありますが、その自然堤防の範囲はその上に古い民家が多く建っていることでおおよそ見当がつきます、その範囲を大まかにつかんだのが第3図に点線で示したところです

そして、先に行われた鍛冶谷・新田口遺跡の第1次調査で弥生時代後期の弥生町式土器をもった方形周溝墓の発見があり、さらに、古墳時代前期前半の五領Ⅱ式土器をを検出した方形周溝墓や住居址が発見されていることから、ここに集落の存在を推定することができます

鍛冶谷・新田口遺跡の第1次調査と同じ時期に、戸田市元蕨地区壔構(とうがまえ)(第3図矢印斜め上の×印)からも戸田中学校の生徒により弥生町式土器が発見されていますし、加えて鍛冶谷・新田口遺跡の南方500mの地点(第3図矢印斜め下の×印)にも土師器(鬼高?)の散布、および円墳が一基が確認されています

ところが、同じ戸田市内でも笹目や美女木地区では自然堤防の向きも東ー西から南ー北に細長いものとなり、その成立も前者とはかなり違うようです、美女木番匠免からは縄文時代中期初頭の五領ヶ台式土器や、阿玉台式土器の破片が発見されています、戸田市を4地区に分けた内の上流にある美女木地区の開発が最も早く、以下順に東へ向かって開発されたようです