入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

古地図で見る川口・鳩ヶ谷の歴史

戸塚・大門地域の変遷-4

1876年(明治9年)当時、戸塚地域(戸塚④、西立野⑤、長造〔正しくは蔵〕新田⑥、久左衛門新田⑦、藤兵衛新田⑧)には167.3ヘクタールの水田がありました、また、藤兵衛新田と久左衛門新田の間には、綾瀬川両岸にわたって、約10ヘクタールの沼地(大沼)⑨があって、この地帯の水害を軽減するための遊水池の役割を果たしていました

ここは周辺村々の入会地でもありましたが、大正末から昭和にかけて開田され水田となりました、この地帯はかっては魚の豊富な所でした、しかし、今日では川口市の100人収容の老人用風呂付のゴミ処理場・環境整備センター⑩として利用されています

このほか、見沼代用水東縁水路側に差間(旧大門村の一大字)⑪の25.5ヘクタールの水田がありました、戸塚・大門地域の水田はほとんどは一毛作田でした、水田用水は見沼代用水東縁水路から赤堀用水や天久保用水によって取水していました

しかし、この地域はしばしば用水不足に悩まされました、この時には集落ごとに計画的な取水が行われ、最上流の立山⑫の場合は「何の処置もしないで用水は関係水田全体に入った」と言われます、次の下戸塚⑬から下流の番になると、まず立山に入る土管に土俵を詰め用水を堰上げて取水しました

最末流の一本木⑭になると上流各取水口にそれぞれ」土俵を詰め、堰上げて取水しました、上流から末流までの関係水田を一巡するのに10日間を必要とした云われています

ところが、番水中でも上流の水田が用水不足で地割れをした場合などに、下流の一本木で取水中にもかかわらず上流の集落が土俵を内緒で抜いて取水(盗水)するようなこともありました、これがありますと末流では用水が取れなくなってしまいます、それを防ぐために末流の一本木などでは「各所に蚊帳を張りムシロを敷いて寝ずの番をした」また「根井掘に水位を測る棒を立てておき、水が下がると全部に知らせて土俵を抜かれている土管を総出で探し歩いた」と言われています