入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑰

1371年(応安4年)、渋川義行が武蔵国司の任を命ぜられ、その居館を構えたのは巷間”百井の屋敷”があった所の付近で”戸田の御所”といわれたのではないでしょうか(古代以来、戸田付近を統治する有力者が拠ったと思われる〔高知原〕かもしれません)、足利尊氏一門の若きエリートであった渋川義行は一門の人材不足もあったのか、1365年(貞治4年)には九州探題にも補任されており、中国地方に居て実際には戸田の地には来て居らず、その重臣であったと思われる板倉氏などが渋川氏のための”戸田の御所”と呼ばれた館を設計、構築したのだと思われます

そして、この時の”百井の屋敷・もものいやしき”の主は観応の擾乱(1351年)に足利直義方として戦い、足利尊氏軍に敗れて戸田に逃れてきた金子氏(金子氏については、既に説明をしましたが、後に云われる『金子豊後守』かもしれません)だったのでしょう

戸田付近を含めて足立郷と(板橋区)赤塚郷一帯は、鎌倉幕府が倒れ南北朝時代に入って、足利尊氏に重視され直轄の足利領となっていました、しかし、渋川義行が戸田にかかわるようになった時は観応の擾乱後約20年を経ており、その後ろだてとなっていた足利尊氏は反足利尊氏勢力との戦いで各地を転戦していて、その足元の足利領の統治は弱体化し、又、主の渋川義行が不在でもあり規律は乱れていたのでしょう、渋川義行の居館構築までは戦いに敗れた金子氏が高知原に屋敷を構えていても大して問題とはならなかったのでしょう

しかし、渋川氏の戸田への進出は、鎌倉上道・荒川(中期入間川)・難波田道・鎌倉中道の確保、大宮台地南部・足立低地の掌握(旧与野のさいたま市中央区本町東7には渋川氏の出城と伝承される落合陣屋跡などもあり、江戸時代に徳川家康に命じられた伊奈氏の役割と同じようなものだったかも知れません)を目指していたと思われますので、金子氏の存在は頭の痛い問題だったのでしょう

後ろだての足利氏が強力であったなら、その力で金子氏を排除したのでしょうが、観応の擾乱以後大宮・与野・浦和方面に居を構えた金子一門の力も回復し、その力もあなどれなくなっていたと思われますので、戦さを構えることは出来ず、両者の間で何らかの妥協が成立したのでしょう

この妥協が、金子氏→もものいさま→桃井氏と入れ替わったもととなったのでしょう、詳しい説明はこの次に続きます