入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑯

これまでに巷間に伝わっていた伝承や、研究されてきた文献情報を中心に学んできましたが、観応の擾乱(観応2年ー1351年)以後から渋川義行の武蔵国司拝命(応安4年ー1371年)までは、信憑性が疑わしい桃井氏の戸田への係わりが『新編武蔵風土記稿』に記されているものの、確たる情報はこれまでに見られません

そこで、今までに学んできた伝承、文献を元にその当時を自分なりに推測、想像をしていくことにします、なんの裏打ちのない愚かな空想ですが、展開してみることにします、老人の戯言と思ってお付き合いください

まず、結論から申し上げますと、『新編武蔵風土記稿』にある桃井播磨守直常は戸田とは何ら関係がない、”ももいのやしき・百井の屋敷”なる所は水の沢山吹き出る所で、弥生時代以降、特に平安時代末から鎌倉時代南北朝時代室町時代かけて戸田の政治を司る重要な場所であったであろうということです

そして、その移り変わる時代と共に、そこを占拠して、戸田付近の政治をおこなった主は変わったのだと思われます、また、蕨城(館)のことを考える上でもこの事を考えていくことは非常に重要なことと思われます

次回からは、その詳しい理由、展開について考えてみることにします