入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑬

もう少し、伝承を手繰りますと、”大満公院屋敷跡”というのは今の戸田第1小学校と現在の海禅寺を含めた場所であると言われています、明治末年ごろのその地の地形は大体150メートル四方の正方形で、今より南に広く、四方は堀をめぐらし、田んぼの面から約150センチ位高く、屋敷の東北の隅に「あかぎ稲荷神社」または、「あかい稲荷神社」という一社があり、屋敷の西側には尼僧が居住していたところであったと言われます

問題は”大満公”或いは”大満公院”が誰であったのかと云うことです、これは何の証拠もなく自分のまったくの想像ですが、場所的に考えると元蕨の地に”蕨城(館)”を築いたときに、ともに確保された所だと思います

そして、”大満公”或いは”大満公院”は渋川義行の息子の渋川満頼という武人のことだと思います、この人は九州探題を二度も勤めた人です、父義行が武蔵国司として蕨(元蕨)での統治・支配を命じられた時の翌年の応安5年の生まれです(年譜などを調べますと渋川義行は実際には、蕨の地には赴任していないようです、このことは後にまた述べますが)、”大満公院屋敷跡”はこの渋川満頼の赴任に備えての屋敷用地、或いは屋敷だったのではないかと思われます

さらに、もう一つの伝承で、”三左衛門屋敷跡”というのは、蕨城主となった渋川義行、義鏡等が衛門府の次官(左衛門佐)であったことから蕨城主を別名蕨左衛門といい、その屋敷を左衛門屋敷と言ったとのことです、渋川左衛門佐義鏡等三代が居城したことに起因するのでしょう