入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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伊興遺跡補習ー15

◎足立区古道推定

『足立区史』には、千住元宿から伊興東側を通り、水神に抜ける古道(Dルート)を[旧日光街道前の奥州街道]と記されていますが、「旧い農家や社寺がみなこの道路沿いに集中」しており、千住元宿という地名も残存していることから、近世以前に千住元宿~伊興周辺~水神付近に古道が存在した可能性は高いようです

最近の調査で、武蔵千葉氏の15世紀後半の居城「中曽根城」が確認されました、小字中曽根に六丁四方の外構えと土塁の跡がある城跡です、中曽根城は下総国に本拠をもつ千葉氏の内紛で逃れてきた実胤・自胤兄弟の築城ですが、石浜(荒川区)・赤塚(板橋区)を経てこの地を本拠地として足立郡南部に勢力を伸張しました、その所領は埼玉県大宮市、浦和市以外にも足立区淵江・沼田・伊興・保木間・千住・三俣などの村々があり、ここでいう古道沿いにあったことが察せられます

このうちの南端の淵江に中曽根城が築造された理由として、武蔵西遷当初の拠点石浜・赤塚を結ぶライン、荒川の荒川交通を念頭に置いているが、中曽根城とはまさにこの古道沿いの所領と荒川の直交する点であり、交通路の存在を抜きにしては考えられない立地です、千葉氏はここを拠点として、岩槻太田氏を後盾にもつ舎人氏と対峙していたのです

また、中曽根城の存在した足立区西部に自然堤防の発達している点も注目されます、足立区東部が中川・綾瀬川の氾濫原であり、近世まで新田開発がなされてなかったのと対照的に、西部は自然堤防の存在によって古くから開けたのです、おそらく、伊興遺跡をはじめとする毛長川流域の遺跡を形成した人々の子孫がこの自然堤防によりながら、開発を進めていったのでしょう

例えば、伊興遺跡の西南には若宮八幡神社遺跡が控えていますが、最近の調査の結果、伊興遺跡と異なり、平安時代以降中世に主体をおいていたことが明らかになっています、距離的にも近いことから、ほぼ中世には伊興遺跡南部と若宮八幡神社遺跡が足立区西部の拠点的な集落を形成していたのでしょう、伊興経塚・六万部経塚がこの位置に存在することは、それを端的に物語っています

しかし、この当時の集落はこれにとどまらず、若宮八幡遺跡以南にも飛び地的に存在していたようです、大規模な集落が発達していたとは考えにくいですが、自然堤防によりながら集落が点在していたことをうかがわせます、即ち、これら南部に発達しつつある集落を結ぶ自然堤防上に古道が存在したと考えるほうが自然です

この古道に示されるように足立区の歴史は伊興・舎人遺跡をはじめとする北辺に始まり、若宮八幡神社遺跡を介在し、中曽根城・千住宿の存在する南辺に到達するのです、この点は毛長川の開発から荒川の開発への転換ということも可能です、平安時代以前には下足立の中心域であり、開発の端緒となった毛長川流域のさまざまな集落も中・近世以降には千住宿を取り巻く北辺の近郊農村の一つにすぎなくなってしまうのです