入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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川口の古を考える

二軒在家遺跡・朝日4-3地点調査 [5]

近世では、畝状遺構9条と溝状遺構1条が検出されました、畝状遺構は溝状遺構の示す方向性に沿うように意識的に構築されたようです

この発掘調査で最も注目されるのは、検出遺構、出土遺物の規模および数量・密度という点で平安時代です、特に、北側に庇のある3間×5間で、母屋の部分で桁行き約11m、梁(はり)行き約5.4mで庇の部分を含めると約6.3mという大型の掘立柱の建物の1号建物跡は注目されます、それに伴う遺物は、土師器の坏・甕・壷があり、遠く東海地方からもたらされた灰釉陶器、下総型と呼ばれる須恵器の甕も出土しています、また、遺物の出土状態が、建物の北東部の柱穴に集中し、あえて破砕し柱穴間に分散されていて、通常の建物跡では考えられないような状況です

仮に、これを倉庫として見ると、本建物跡は、建物の外周に沿った柱穴のみで、その内側に梁や桁方向にそれぞれ並行して外周の柱穴と対応すべきものが認められないことから、床面の耐荷重はそれほどではなかったと考えられます、従って、倉庫等とは思われません

その形態及び規模・遺物の種類・出土状況などから、通常の一般の住居跡、倉庫ではないようです、北の庇の存在は、出入り口の取り付けられている方向を表し、そのまま建物の向きをも表していると考えられます

この考えに従えば、本建物は旧河道の方に向いて建てられてとも考えられます、すると、古入間川の舟運を統括した有力者の所在したところ、或いはその政務を執り行った所とも推定されます