入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑫

後(小田原)北条氏が敗れ、関東の治世は徳川家康となりますが、家康は伊奈氏などを使い、中山道整備、江戸の洪水防止・諸河川沿いの低地開発等のため河川の付け替え、堤防の改修を行なっています

この時、荒川の中期入間川への付け替えと共に、戸田の地でも慶長15年(1610年)荒川に堤防が築かれました、そして、その際に戸田ほか近隣の中世の歴史を探るうえで重要な示唆を与えたであろう川沿いの寺社の移転が大幅に行われました

築かれた堤防の位置は前に掲示した”蕨城の近辺”の図の慶長15年の堤です、戸田では前新田の南寄りを通っていたため、「たふくえん」付近一帯は堤外地となってしまいました、中期入間川に荒川をつないだことにより洪水時の水流は増して、しかも前新田と志村台地の間を流れるという一大制約を受けることになり、被害は昔日の比ではなくなりました

このような事情などから堤外となる寺社の移転が行われたのでしょう(同図には移転前の寺社の位置も示されています)、伝承にもとに各寺社をあたって見ますと次のようになります

◇ 観音寺は、鎌倉時代以来の名族荘和泉守秀永の後裔荘氏の屋敷へ移る

◇ 多福院は、上戸田の金子豊後屋敷跡へ移る

◇ 海禅時は、上戸田東町の大満公院屋敷跡へ移る

◇ 光明寺は、元蕨の城趾三左衛門屋敷跡へ移る

◇ 常福寺・正覚院は、徳川時代以前からの要害道=旧中山道沿いの金子紀伊守(もとやしき)の所有地に建立されたと言われています