入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑨

「もものい屋敷」があったと云われる付近は、太古の河川の乱流によって中期入間川(現荒川)沿いに、自然堤防ができたのもと思われます、その自然堤防はおおまかに見て3本あったと思われます、そのうち入間川左岸沿いにあるものがいちばん面積も広く、最も早く開けたところであることは最近の古代遺跡の発掘でわかっています(発掘された遺跡の詳報は別のページで掲示します)、そして、北に向かって第2、第3の順に自然堤防が、平行するように並んでいたのでしょう

川の左岸(埼玉県)に沿う、第1自然堤防が現在見るように低いのは、大正時代以後からであって、それ以前は川面より約3メートル程、岸が高かったのです、現在のように低くなったは大正初期より少し前の時代にあったことが原因となったのです

詳しく見てみますと、戸田より下流の鹿浜(ししはま)に大きな煉瓦工場ができて、その原土を大きな土船で自然堤防から搬出した、又、東京市の発展によって屋根土や壁土に使用することが多かった等です

更に、それ以前の時代でも、徳川家康が江戸に幕府を開き、関東郡代伊奈氏に命じて築いたという人工の堤防が、荒川左岸の前新田地区を通っていましたが、この堤防築造に使った土も、第1自然堤防の土であったと思われます、伊奈氏の築いた人工堤防は上流は熊谷辺まで、下流は千住まででした、荒川が氾濫したときは、この前新田(昔は堤という地名)で馬を利用して千住をへて江戸入りしたと古書に見えます

そして、明治40年と43年の荒川大洪水では、伊奈氏の築いたこの人工堤防は水を防ぎきれず、ついにあふれて堤防総越しという大惨事となってしまいました、政府も捨てておけず、大正の初期にその古い人工堤防にあらたに土を盛って、土手普請を各所分担の形で行ったのです、この土も第1自然堤防の土を使ったのです