入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑧

前回記述したように、桃井氏の戸田支配は年譜的にあり得ないようです、従来、戸田には桃井播磨守直和の居館があって、その屋敷を「桃井屋敷」と云ったという伝承があります、しかし、『百の井屋敷=もものいやしき』と言われているところは3ヵ所ばかりありますが、食用に供する木へんに兆の字の「桃」という字を使った『桃井屋敷=もものいやしき』と言われるところは1ヵ所もありません、戸田の「もものい屋敷」という屋敷名は、人物に関係する姓や氏には何ら関係のない地名に他ならないからです

昔から、武蔵国は自噴する湧水の井戸が多いことは広く知られています、その中でも戸田を流れていた中期入間川沿いの左岸は、いたるところに自噴する井戸が沢山ありました(近世まで近隣の川口では自噴の井戸が数ヵ所ありました、その水があったことが、ビール会社が工場をもうけた一つの条件でもあったようです)、百の井戸があるということから百の井=もものい、という地名や、多吹野=たふくの、と呼ばれていたところがあったわけです

ですから、天然現象がもととなって地名となり、半農半武の土豪がそこに居館を構えるようになってから、在来の地名に「屋敷」とか「苑」という字をつけて、百の井屋敷、多吹苑となったと思われます