入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑦

前回の記事に示した諸文献では、桃井氏の家譜を述べ、桃井直常越中国で討死ののちに直和が東国に来て当地を占拠し、その子孫と称する金子氏が現住し、多福院や海禅寺の過去帳にそれらの名が記述されているのです

ここで『新記』を離れ『国史大辞典』(吉川弘文館刊)からこの桃井氏の家譜の主要点をみると、次のようになります

桃井氏ー清和源氏、足利流、足利義兼の子義胤(実は義兼の次男義助の子)が、上野国群馬郡桃井郷(群馬県北群馬郡榛東村)を領して桃井氏を称したといわれます(中略)胤氏の弟頼直の系統からは、その孫直常が南北朝時代初期から足利氏の武将として活躍し、若狭・伊賀守護を経て、康永3年(1344年)以降は越中守護として北陸に勢力を伸ばした

観応擾乱に際しては、直常と弟直信の兄弟は一貫して足利直義方として活躍し、(中略)その後、貞治5年(1366年)以降、幕府に帰順し、直信は越中守護となった、応安元年(1368年)直常はまた幕府に叛いて北陸で幕府軍と戦ったが、同3年、直常の子直和は越中国斯波義将・富樫昌家らに敗れて討死し、翌4年、直常・直信兄弟も斯波・吉見氏らの幕府軍と戦って敗れ、それ以後消息を絶った

これでみると、越中国幕府軍の斯波・富樫氏らと交戦し、討死したのは直和であり、直常・直信兄弟は幕府軍と戦ったが敗れ、それ以後消息を絶ったとされており、『新記』上戸田村の項の桃井直常、その子直和の記述とは相違しています