入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-④

観応の擾乱」は急進的な立場をとる足利尊氏と漸進的立場をとる足利直義の二人の兄弟をそれぞれの頂点とした派閥抗争を含んだ対立でした、1351年12月、尊氏軍に合流するため府中に向かう高麗経澄の軍勢とそれを向かえ撃つ直義方の難波田九郎三郎の軍勢が羽根倉橋(志木市宗岡)付近で合戦し、九郎三郎は敗れて討ち死にしました、この合戦を「羽祢蔵合戦」と言います

結果として、難波田氏の敗北に終わったのですが、「承久の乱」(1221年)で戦死した金子小太郎高範の子孫と思われる武士が富士見市の南畑地区を中心に活躍していたこと、その難波田九郎三郎が直義党に属していたことなどが判ります

「羽祢蔵合戦」は鎌倉街道が荒川(中期入間川)と交差する志木・富士見・さいたま市の境界辺の羽根倉であったと考えられます、恐らく経澄らは荒川渡河を決行したのに対し、それを阻止しようとする対岸の領主難波田九郎三郎との間に激戦が展開されたのでしょう

保元・平治の乱で活躍し、その後頼朝の御家人となり鎌倉幕府で活躍する金子十郎家忠の一族である金子小太郎高範は難波田氏の祖といわれる人で、対外的には金子を称しながら、鎌倉初期の段階で、すでに富士見市域の難波田(現在の富士見市南畑)に居住し、金子家の分家として半独立的な状況にあったと思われます、そして既に難波田氏を通称としていたのではないか、この金子=難波田の嫡子は代々小太郎を称していました

入間郡多摩郡の両金子村を本拠とする金子氏の一族は、段々とその勢力を広げ、田間宮村(鴻巣市)・上戸村(戸田市)・三木村(志木市)・小溝村(岩槻市)・南畑村(富士見市)・さいたま市に蔓延割拠しています