2011-10-28 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-② 戸田の地は縄文時代は通じて縄文海進により水面下にあったのでしょう、弥生時代(今より2000年位前)の後半から古墳時代(1700年から1500年前位)に水面上にわずかに表れた所々の土地に人々が住むようになったようです(前谷・鍛冶谷新田口・上戸田本村・南町・南原遺跡など) しかし、これらの所も度々の洪水では水面下となり、その度に人々は苦しい思いをしていたのでしょう、その後、少しづつ陸地化が進み本格的な集落が出来、開拓・開発が始まったのは平安時代末期のようです、佐々目、美女木、さいたま市内谷などの荒川(中期入間川)沿いの自然堤防上の土地で荘園的なものが拓け、鎌倉時代には鶴岡八幡宮の社領として佐々目郷が成立したのでしょう 鎌倉時代の戸田には『吾妻鏡』に見える戸田六郎兵衛尉茂平、妙顕寺の墨田五郎時光がいたようです、南北朝時代には庄(荘)氏(児玉党)、篠氏(私市党ーきさいち、或いは豊島氏の家臣ともいわれる)、金子氏(村山党)、渋川氏(足利一族)などにより開発がおこなわれたものと思われます、渋川氏は足利一族ですが応永4年(1371年)に蕨(戸田)に居城したと云われます 上の図は岡田恒三郎氏によって作られた年表です、渋川義行の没年については疑念がありますが、概ね妥当なものと思われます