2011-10-19 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー219 また、「武州文書」に弘治2年(1556年)の「太田資正書状写」が収められていますが、これは太田資正が玉林坊に対して下足立内三十三郷の檀那役に関して、資正方の戦勝祈願のために入峰するかわりに、以前のように安堵するというものです、戦国期の修験者は、各地を往来し関所なども自由に通行できたので、情報収集の手段として戦国の武将たちから厚遇されたのです 玉林院は、その後も当地の支配者である後北条氏、徳川氏の庇護を受けましたが、明治になって修験道の廃止とともに明治7年(1874年)には廃寺となり、諸堂は取り壊され、古文書の多くは散逸し、わずかに中尾の饗庭家に八角釣燈籠などの資料が遺っている程度です 〔追伸〕 蕨の歴史・中世は一応終わります、次は『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城(館)を考える』に移ります