入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー197

戦国時代にあっては、領国内の交通体系を確立することは軍事的意味からも急務でした、各城の間の通信・物資輸送のために積極的に街道整備が行われました、特に後北条氏は小田原本城を中心に支城を結び、河越・岩付・松山・忍・鉢形などの各城を結ぶための伝馬制をしいていました

大永4年(1524年)の「関山文書」には、小田原・玉縄から石戸(北本市)・毛呂(入間郡毛呂山町)へ印判状を持参しない者へは伝馬を出す必要がないことが見え、また天正10年(1582年)12月9日、奈良梨(比企郡小川町)へも伝馬掟を発給し、菅谷(比企郡嵐山町)、奈良梨、高見(小川町)の伝馬の存在が知られています

さらに天正12年6月30日に岩付より沼津(静岡県沼津市)までの伝馬手形を発給し、小渕不動院春日部市)のための伝馬3疋の出役を命じています

これらは宿場に問屋を設け、そこに提示する手形に「可除一里一銭」とあるものを公用荷物として無償とし、これ以外のものは一里につき一銭を払わせていました、通常伝馬は、平時に1日3疋、戦時に10疋が割り当てられました

しかし、後には負担数は各宿の貫高に応じて決められ、平時に1日3疋は最低負担数であり、領国内一律に賦課されたものでなく個別に出されたものでしょう

蕨周辺に後北条氏の伝馬制を記した史料は前記の岩付から沼津までのものだけですが、これが出された時期は、岩付太田氏を氏房に継がせた跡で、付近を完全に支配に入れており、沼津や小田原城との連絡には鎌倉街道の中道が利用されたと考えられます、また、玉縄や八王子との連絡には羽根倉街道が使われたのであり、蕨も街道周辺であり何らかの負担があったのかもしれません