入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー189

これらの市名は、当時の村落や市の発達状態からみて、奥書にある年期に比定することができず、後年のものと考えられ、従来から研究が進められてきました、代表的な説が後北条氏時代の岩付太田氏の勢力圏内の市を列記したというものです、その理由として市名は現在の岩槻市を中心とした埼玉県東部に偏在し、岩付太田氏の勢力範囲と一致し、祭文の文章と集落の発達程度からして岩付太田氏の勢力が後北条氏に包含されて以後のものであるとしています

これに対して、市の分布は必ずしも岩付太田氏の勢力圏内にあったものと限らず、それ以外の市も見られ、その一方で勢力圏内にある市が列記されていないことなどから若干の疑問が出されています

さらにもう一通の「市場之祭文」の存在が注目されます、祭文自体はほぼ同文ですが、市名の列記はなく、その奥書に「武州文書」と同年記をもち、大口村の関根権重郎の先祖が、祭文を持って各市場を巡回して市祭りを行っていたことが記されています

これにより関根家の先祖が修験者であったことがうかがわれ、前述の武助とともに慶伝という修験者が入定した慶伝塚がある修験者とも関係の深い大口村住人であり、従って武助も修験者の家柄であったことが推定されます

しかも後北条氏支配下時代の市ということに異論はありませんが、岩付太田氏の勢力圏外の吉河(吉川市)・彦名(三郷市彦成)・花和田(三郷市花和田)や成田氏領である行田(行田市)が記され、一方城下の岩付市宿や越谷大相模不動門前の市が記されておらず、付近の市を網羅しているとは云えません

こうしたことから「武州文書」の祭文奥書の市名は修験者であった武助の先祖がつかさどった市祭りの市名が列記されたものであり、市祭りは少なくとも複数の修験者によって互いに重複しないように行われていたとみられます、つまり、奥書列記の市名は、修験者の祭祀圏を表したものと考えられます