2011-09-05 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー175 しかし、東征軍22万余の大軍に対し、迎え討つ後北条軍は3万5千程、さらに火器の鉄砲の数は少なく、後北条氏の劣勢は明らかでした、しかも兵農分離した秀吉の正規軍と、後北条氏の兵農未分離の農民兵では、初めから勝敗は決まっていました 秀吉軍と後北条軍の衝突は3月25日前後の駿豆国境の城攻撃からで、後北条氏側は足柄ー山中ー韮山の3城、つまり箱根の険を防御の前衛線と考え、山中城には松田康長、韮山城には北条氏規を配し守りを固めていました 韮山城は容易に陥落せず、持久戦となりましたが、防衛線の要であった山中城は羽柴秀次らの攻撃で一日で陥落してしまいました、秀吉勢は山中城を落とした勢いで4月3日には小田原まで進み、小田原城包囲の態勢をとり、秀吉は長期の攻城戦に備え石垣山に城を築いて万全の体制を整えました 小田原城は、城と城下町を囲む巨大な土塁によって守られた堅固な城で、さらに外郭にある9つの出入り口には一族、重臣を配し守りを固めていました、太田氏房の率いる岩付勢は久野口・井野田の守備に当たっていました