入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー174

天正15年5月、秀吉は九州の島津義久を屈服させると、関東攻略の具体的展開を始めました、後北条氏と種々の交渉をもちますが、決裂し北条氏政・氏直は上洛しませんでした、秀吉は「関東・奥惣無事」令違反とし、北条氏討伐の名文としました、そして11月24日付けで5ヵ条からなる宣戦布告状を突きつけました

天正18年正月9日、上杉景勝小田原征伐を告げ、戦功に励むべきことを要請します、秀吉の陣触れに応じた約22万の軍勢が東海道北陸道を経て一斉に小田原に向かって進撃を始めました、2月7日に発した家康の先鋒軍に続いて3月1日には秀吉も自ら3万2千余の軍勢を率いて京都を出発、東海道の家康軍と合流しました

一方、後北条氏は秀吉の宣戦布告状が届けられると、即刻領内に出陣命令を発し、天正18年正月4日には家臣に小田原城詰めを命じました、小田原城内では小田原評定が開かれ、松田憲秀の籠城説と北条氏邦の出撃説に分かれましたが、結局籠城説に落ち着きました

籠城と決定した理由は、永禄4年(1516年)4月の上杉謙信、同12年10月の武田信玄という名将2人を籠城戦によって撃退したという自信があったからであり、それが小田原城に対する過信を生み、さらに秀吉勢に対する認識の甘さもあって籠城戦へと傾いていったと思われます