入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー173

こうして後北条・豊臣両氏との間に緊迫した状況がみなぎっていたころ、後北条氏の領国下において、臨戦体制に動揺を与える農民抵抗事件があいついで起こっています

岩付領では天正7年に後北条氏給人と在地有力農民との間に対立が起こります、同年6月20日付北条氏裁許状によれば、この年後北条氏の給人である足立郡鳩ヶ谷郷の笠原助八郎の私領では、百姓が助八郎との間に紛争を起こし、連名で血判までして領内を退転してしまい、事件後小田原の裁許となりました

後北条氏は領主に非分があれば公儀(北条家)へ訴えるべきであり、そうした手段をとらず一斉に領内退転するのは刎頚(斬首)に処すべきであるが、取持人(仲介者)が誓詞を提出したので、血判状の筆頭に署名してある鈴木勘解由のみを処罰し、百姓船戸大学助らは赦免するというものでした

この退転の原因は年貢諸役の過重な負担に対する抵抗、或いは知行人笠原助八郎の苛政によるとも思われますが、いずれにせよ公儀に対する集団的反抗を意味しています、この動きが領内へ波及すれば、岩付領の支配は危機に陥るので、北条家は筆頭人のみを処罰し、船戸大学助らに対しては「前々の如く郷内へ帰って、太田氏時代のように百姓をし、万一横合より非分をなす物があれば申し出よ」と妥協せざるを得なかったことは明らかです

主謀者となった百姓は、普通の農民でなかったこたは明らかであり、船戸氏は近世に入ると鳩ヶ谷宿の本陣・問屋・名主を兼務する村落の支配階級でしたから、一般農民の上に立つ名主層と云えます、この郷村離脱による組織的抵抗は、また、太田窪(さいたま市南区)にも生じています、後北条氏は、正面には秀吉の重圧を、内部には領下農民の抵抗に悩まされていたのです