2011-08-29 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー168 氏房による領国支配は、天正15年以降は、秀吉の宣戦布告による臨戦態勢のため、戦勝祈願を意図して寺社に所領安堵を認め、また岩付城防衛のための修築と兵糧米の城内納入を家臣を通じて領民から徴発することが顕著となっているところに特徴があります 関東で後北条氏が独自の統一政策を推進し版図を拡大している間に、西国では急速な変化が生じていまいた、天正10年(1582年)、織田信長は滝川一益を甲州に派遣して武田氏を滅ぼし、その余勢をかって上野に進出しました 滝川一益は武田の属将厩橋城主(群馬県前橋市)北条高広を追って同城に入り、関東管領として上野の諸武将を従え、北条氏直の軍と対決しました、このため鉢形城主北条氏邦を始め成田氏・上田氏ら北武蔵の武将たちは、一益勢の脅威に直接さらされました しかし、この年6月、信長が京都本能寺の変で討ち死にしたため形成は逆転して上武国境の神流川の合戦で敗れた一益は、上州箕輪城(群馬県群馬郡箕郷町)に退き、やがて本拠地伊勢国に逃走しました、北条氏直は一益を追って信州に入り、南下して甲州をうかがい、徳川家康と対決することとなりました