入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー165

天正9年7月8日、後北条氏から内山氏に対して改定着到状が出されています、改定着到状とは、知行貫高に比例して規定された軍役高を書き上げた明細帳で、これに各自が率いるべき部下の人員構成、携行する武器・武具などを詳細に定めたものです、ちなみに改定着到状は後北条氏の代替わりごとに出され、この文書のほかに4点が確認されています

内山氏の軍役負担は、馬上侍1騎(内山弥右衛門尉自身)、大小旗持1人、指物持1人、鑓(やり)持1人の4名でした、一方、元亀3年に宮城泰業(やすなり)に対する改定着到は36人であり、知行高による負担差が明確に示されいます

その後、内山氏は関東を取り巻く情勢の変化から、岩付太田氏を継いだ氏政の子の氏房から新たな負担を求められました、その1つは天正15年8月8日、岩付城防衛のため知行地からの農兵の徴発であり、次いで10月28日に、内山氏所領の百姓が、岩付城諸曲輪の塀の修築を命ぜられていることです、これらの徴発された者は、内山氏の知行地である芝郷などの人々ですが、臨戦体制にあっては通常規定された負担以上のものが求められたのです

さらに、天正17年(1589年)11月24日秀吉から北条氏政・氏直父子に宣戦布告がなされると内山氏は氏房から12月29日に出陣が迫っているので、岩付城の大構内に妻子を連れて移るよう命ぜられています、これ以後内山氏は氏房に従い、小田原本城に籠ったと思われますが、落城前後の動向は不明です