入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー160

永禄7年の国府台合戦により里見氏は、上総国の多くを失い安房国に退いていましたが、同10年ごろには勢力を挽回し久留里(千葉県君津市)まで進出しました、そのため太田氏資は、北条氏政らとともに同年8月上総国へ出陣しました、後北条軍は三舟山(千葉県富津市・君津市の境界付近)に陣をしき里見義弘軍と対峙しました

この合戦は後北条軍の大敗となり、殿をつとめた太田氏資は戦死しました、一説には、氏資は後北条勢により準備不足にもかかわらず出陣を強要され、わずか50余騎で出陣せざるを得なかったので、後北条氏による太田氏資謀殺説もあります、また戦後北条氏政が発給した判物によれば、氏資の作戦の「越度(おっと・失敗)」とされています

このようにして、岩付太田氏は、岩付城主の地位を失い、岩付領も後北条氏の直接支配下に組み込まれることになり、家臣団も後北条氏の家臣団に編入されていきました、そして、岩付太田氏の名跡は、氏政の子の源五郎、ついで氏房が継ぐこととなりました