入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー159

北条氏康・氏政は、資房を懐柔し、永禄7年7月、資正が国府台(千葉県市川市)敗戦の退勢挽回の相談のため、里見氏や宇都宮氏を訪れ岩付城を留守にしたすきに、資房は家臣の春日摂津守・恒岡越後守らと諮って父資正の帰城を拒み追放しました

以後、資正と政景は、常陸の佐竹氏や上杉謙信の協力を得て岩付城復帰に尽力しますが、二度と岩付の地を踏むことはありませんでした、一方資房は氏康の娘を妻に迎え、氏康の「氏」の一字をもらい「氏資」と改名しました、こうして氏康父子は、武蔵平定の中で最大の障害であった岩付城を勢力下に置くことができ、後北条氏の支城の一つとしました

氏資が岩付領を支配した期間は永禄10年8月までのわずか3年間にすぎませんでした、しかも領内には、父資正や政景の支配地や干渉があり、必ずしも円滑に行われませんでしたが、家臣団の動揺を抑えて支配体制の確立を目論みました

その中で見るべきものとして寺社の保護があります、足立郡清河寺(せいがんじ・大宮)・閼伽井坊(あかいぼう・伊奈町)・埼玉郡法華寺(岩槻)などに対して、寺内不入・門前諸役の免除・寺領安堵を行っています、大行院(鴻巣)の上足立三十三郷伊勢熊野先達衆檀那職についても、父資正同様安堵しています、また、渋江井鋳物師(岩槻)の諸公事免除も行っています

領内の開発については、比企郡井草郷(比企郡川島町)の百姓に荒野の開発を命じていますが、蕨周辺のものは見られません、ただ、内山弥右衛門尉に対しては芝郷の沼尻と、柳崎(いずれも川口市)に所領を与えています