入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー158

江戸衆は、江戸城主遠山綱景の支配下に組織された家臣団で、知行高の合計は小田原衆に次ぐ大きなものでした、蕨近在では、松山城主上田氏の一族と思われる豹徳軒の所領として平柳(川口市元郷付近)の半分所務として15貫350文、新倉(にいくら・和光市上新倉・下新倉)40貫文、上足立郡大窪村(さいたま市桜区上大久保・下大久保・大久保領家あたり)3貫文、太田窪(さいたま市南区)1貫文、また太田新六郎分として岩淵5ヵ村(東京都北区岩淵町)185貫文などがみられます

太田新六郎は太田康資(やすすけ)のことで、北条氏綱の女を母とし、江戸城主遠山直景の女婿となり、江戸衆の一員として各地の戦闘で軍功を挙げましたが、のちに太田資正とともに上杉方として行動しています、また平柳の半分所務というのは、敵対していた岩付城主太田資正の支配地であることを示し、当時の蕨周辺の錯綜した支配状況が『小田原衆所領役帳』の記載からもうかがわれます

岩付太田氏にとって、資正の時代は全盛期でした、資正には源五郎資房と源太政景の男子がいましたが、資正は資房を疎んじ、政景を寵愛し家督を譲ろうとしました、これを知った資房は、資正・政景らと対立しました、この家督相続をめぐる確執は、後北条氏に岩付城攻略の糸口を与えることとなりました