2011-08-18 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー157 後北条氏は、武蔵を領国化していく過程で、家臣団支配を確実にするために一門と家臣に対して軍役賦課の基準となる各人の知行役高とその所在地を記載した基本台帳を作成しました、これが『小田原衆所領役帳』とよばれるもので、本来は『北条氏所領役帳』と称されるべきものです この役帳は、天文15年(1546年)の河越夜戦の勝利、同21年の関東管領山内上杉憲政の追放などによって、着々と武蔵に足場を固めた永禄2年段階に作成されたものとされています、その構成は、後北条氏の一族・家臣を地域別・職能別に小田原衆・御馬廻衆・玉縄衆・江戸衆・松山衆などの16の衆に編成して、それぞれについて、知行高・知行地・軍役・出銭などの諸役賦課状況、および検地・蔵出などについて記載したものです この役帳は、後北条氏の家臣団構成や所領の内容を具体的に知る上で貴重な資料ですが、永禄2年段階で後北条の支配が行き届いていない太田氏の岩付衆、成田氏の忍衆などの地域が抜けており、蕨市域も当時敵対していた太田氏の支配領域に入っている関係で地名や領主らの記載はありません、ただし、蕨周辺の地域は太田氏と後北条氏との接点としてくびきの役割を担う江戸衆の所領となっています