2011-08-15 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー154 関東より逃れてきた関東管領上杉憲政を保護した越後の長尾景虎は、関東の反後北条勢力である太田資正などとの連携を深めていきました、永禄3年(1560年)になると、景虎は佐竹義昭や里見義堯から、関東出兵を要請されています、景虎は同年8月になって関東出陣を開始し、三国峠を越えて上野国に軍を進め、9月には厩橋城(群馬県前橋市)に入りました 景虎の関東出陣に際して作成されたと考えらている「関東幕注文」には、関東7か国から景虎のもとに参陣した255人の名前が記されていますが、その中には岩付衆の筆頭として太田資正の名が見え、以下彼の家臣団13人が列記されています このような景虎の動きに対して北条氏康は河越に出陣し、次いで10月には松山城へ移り、厩橋城を拠点とする景虎に対峙しました その後、氏康はその戦術を小田原城籠城へと切り替えたため、翌永禄4年3月、景虎は小田原城を攻撃しました、小田原城の攻防は膠着状態に陥り、景虎軍の兵糧難もあって、同月20日ごろには景虎は小田原城の包囲を解き鎌倉に入っています、そして鎌倉の鶴岡八幡宮において関東管領拝賀の式を行い、上杉氏の名跡を継ぎ政虎と改名した後、越後に帰りました