2011-08-14 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー153 氏康は急ぎ今川義元と講和し、翌天文15年4月、軍勢を率いて河越城救援のために出陣しました、しかし、敵兵が多いことに驚いた氏康は、和を乞う態度を示して上杉方を油断させ、城内と連絡をとったうえで、4月20日の夜上杉陣を急襲し、電撃的勝利を収めました、この戦いで、上杉朝定は敗死して扇谷上杉氏は滅亡し、上杉憲政は上野国平井城(群馬県藤岡市)へ、足利晴氏は下総国古河(茨城県古河市)へそれぞれ逃れました これが世に言う「河越夜戦」です、この河越城の攻防戦における勝利は後北条氏と上杉氏との対立に終止符を打つという意味合いを持つものでした、この後武蔵国の有力武士はその殆どが北条氏に属するようになり、氏康は武蔵国の大半を手に入れることになりました このような後北条氏と上杉氏との攻防戦が行われていた間、蕨市域やその周辺は、後北条氏側と上杉方に属していた岩付太田氏との勢力の接点となっていました、天文16年、松山城主上田安独斎の内応を得た北条氏康は、太田資正の岩付城を攻撃しました この時、上杉憲政は同年12月14日付の書状で、岩付太田氏と婚姻関係にあった三戸四郎に対して、太田氏を支援するために平柳蔵人佑(ひらやなぎくらんどのすけ)をその支配下にいれるように命じています、『新編武蔵国風土記稿』の足立郡元郷村(川口市)の項によれば、岩付城主太田資正の家臣の平柳蔵人というものが元郷村に居住していたとあります、従って、この平柳蔵人が憲政の書状に見える平柳蔵人と同一人物であったとするならば、この辺りはなお岩付太田氏の勢力下にあったものと考えられます