入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー151

こうして、扇谷上杉氏三代にわたった江戸城支配は終わり、後北条氏による支配が始まります、武蔵進出の拠点を手中にした氏康は、同年8月26日、足立郡三室郷(さいたま市緑区)に対し制札を出しています、これは江戸城を攻略した後北条氏の勢力が、半年後には早くも蕨市周辺にまで及んできていたことを示しています、なお、この制札は、埼玉県域に対して発給された後北条氏の最初の文書です

一方岩付城では、城主太田資頼の家臣渋江三郎が氏綱に内通してきたため、氏綱は岩付城を攻めてこれを陥落させました、『本土寺過去帳』によれば、この時に岩付方の武士3000人が討ち死にしたと云います、氏綱は岩付城を渋江三郎に与え、自身は江戸城へ引き上げました、また岩付城主の資頼は、岩付支城の石戸城に逃れました

このような後北条氏の動きに対し上杉朝興は反撃を開始し、河越城を拠点に武蔵南部に進出してきます、蕨城をめぐる攻防が行われたのはこの時です、前に述べましたように大永4年のものと推定される4月1日付「足利高基書状」には、氏綱が「蕨」を乗っ取り、門橋を破却して江戸に戻ったという記載があり、蕨の落城は大永4年と考えられます

しかし、『本土寺過去帳』には、大永6年6月7日に「武蔵蕨自落城」とあり、また『続本朝通鑑』にも同様のことが記載されています、いずれにしても大永4年から同6年にかけ後北条氏と扇谷上杉氏との間で蕨城をめぐる戦いが行われ、何回か落城が繰り返されていたものと思われます