入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー149

太田道灌の暗殺後、山内上杉顕定(あきさだ)は、この機会に自家の勢力を回復しようとして孤立化した扇谷上杉定正を攻めたため、定正は、山内上杉氏に対抗するため古河公方足利成氏と結びました

こうして関東における戦況は、山内・扇谷両上杉氏の対立・抗争を中心とし関東の諸将も2派に分かれて対立するという、新しい局面を迎えることとなりました、両者の戦いは断続して続けられましたが、明応3年(1494年)に定正が没した後、その子の朝良(ともよし)が扇谷上杉氏の家督を継ぎ、また同6年には足利成氏が没して子の政氏が古河公方の地位を継承するなどの世代の交替もあって、以後戦況は小康状態となりました

こうした両上杉氏の抗争が行われていた延徳3年(1491年)4月、堀越公方足利政知の病没にたもない継承問題で混乱していた伊豆国に進攻し、政知嫡子の茶々丸を討ち滅ぼして伊豆一国を手中にしたのが伊勢新九郎長氏です、長氏はやがて韮山静岡県田方郡韮山町)に城を築き、伊豆国内にその勢力を拡大していきました

長氏の出自については諸説があって確かなことはわからないのですが、妹が駿河国守護の今川義忠の室となっていた縁により今川氏の客将となり、義忠没後の家督相続をめぐる今川氏内部の争いでは義忠の子の氏親を擁立し、氏親が家督を継いでからは興国寺城(静岡県沼津市)の城主となっていました、自身は自ら北条氏を称したことはなかったのですが、明応4年ごろ出家して早雲庵宗端(そうずい)と号したので、一般には北条早雲と呼ばれています