入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー148

前述のように、太田氏は岩付を中心として各地に領国防衛の軍事拠点となる諸城があり、防衛ラインを形成していました、そしてそれらの諸城の間を結ぶために、伝馬制度を設けており、弘治3年(1557年)4月8日付「太田資正判物」によると、この伝馬役は、郷の負担で田地の所有者にかけられていました、さらに資正は、入間川など大小河川の堤防工事や耕地の開発を命じています

また資正は、領国内の寺院に対して、これを保護する政策をとりました、弘治2年11月29日付の「太田資正書状写」によると、資正は玉林坊に対して下足立33郷の檀那役を保証しています、玉林坊は、さいたま市緑区にあった京都の聖護院を本山とする本山派修験の寺院です

この当時の修験者は、修業や布教の必要上各地を往来し、関所を自由に通行することができたので、戦国の武将達は彼らを情報収集の手段として利用することが多かったようです、玉林坊に対する資正の保護政策も、このような意味合いがあったものと思われます

さらに、資正は所領安堵・門前不入・諸役免除などに関する判物を領国内の寺院に発給しています、そのうち蕨市域の周辺に関係したものとしては、永禄2年10月13日付の金剛寺川口市)に出された「太田資正書状写」があります

これは金剛寺の門前への公方人の立ち入りを禁止したものです、金剛寺は岩付太田氏と関係のある中田安斎入道安行が開基となっている寺院で、しかも資清(道真)と関係の深い越生入間郡越生町)の龍穏寺の末寺でもあったことから、資正の援助を受けたのでしょう